札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「何を見、何を聞くのか(マタイ㊼) 」

更新日:2025.3.10

マタイによる福音書 第11章1-19節

小林克哉牧師

イエス・キリストは「わたしがなす業を見、わたしが語る言葉を聞きなさい」と言われます。わたしたちが迷う日、疑ったり、自分の思いや考えに閉じこもってしまう時、何が何だかよくわからなくなる時にです。
この時の洗礼者ヨハネも迷い、よく分からなくなっていたようです。ヨハネはイエスさまこそ「来るべき方」(メシア)であると確信していました。ところが、イエスさまは罪人の代表のような徴税人を弟子にし、罪人たちと食事をいっしょにしていると言うではないですか。自分が考えていたメシア、救い主の姿と違ったのです。
洗礼者ヨハネは弟子を遣わしイエスさまに尋ねました。「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか。」(3節)自分が考えている救い主と違う。自分の思う救い、幸せ、真理と違う。他にあるのだろうか。別のものを探さねばならないのだろうか。これはみな経験することではないでしょうか。
いったいわたしたちは何を見、何を聞くために教会に来るのでしょうか。わたしたちが毎週礼拝に来るのは何をするためでしょう。わたしたちが礼拝においてすることはただ一つ、イエス・キリストの御業を見、その御言葉に聞くことです。そのとき、わたしたちは初めて迷いや疑い、がんじがらめになっている自分の思いから解き放たれるのです。
主は今も生きておられます。今もご自身の御体である教会を通して、救いの御業をなさり、御言葉を語り続けておられます。つまずく洗礼者ヨハネを見捨てることなく招き続けられたイエス・キリストは、わたしたちをも招いてくださっています。
「イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。』」(4-6節)礼拝において、十字架で死に三日目にご復活し今も生きておられるイエスさまの御業を見つめ、御言葉を聞き歩んでまいりましょう。アーメン

(2025年3月2日礼拝説教より)

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