「師イエスのようになれば(マタイ㊹)」
更新日:2025.2.12
マタイによる福音書 第10章16-25節
小林克哉牧師
イエスさまは弟子たちを召され、ご自分のそば近くに置かれました。イエスさまが語られる御言葉を聞き、イエスさまがなさる御業を一番近くで経験したのです。弟子は師に学び、師をまね、師の姿を目指すものです。しかし師イエスさまは、神の子、メシア(救い主)であられ、弟子であるわたしたちとはあまりにも隔たっている聖なるお方です。
イエスさまは弟子たちを遣わされます。弟子たちはイエスさまが行くべき町々村々に遣わされ、天の国の福音を宣べ伝え、神の平和を告げます。病をいやし、悪霊(悪しき力)に取り憑かれていた者たちを解放します。そのとき、弟子たちは自分たちを通して神が働かれ、イエスさまが御業をなさったことを経験するのです。
イエスさまに従う歩みには喜びや感動ばかりでなく、また苦しみがあると言われます。人々に受け入れられず、かえって反発をくらい、憎しみや迫害を受けることがあるのです。それはイエスさまもお受けになられたものです。「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。」(24-25節)
イエスさまは、イエスさまによって遣わされたところ(家庭、学校、職場、地域・・・)で、誰かに理解されず、受け入れられないとき、「あなたは師であるわたしに似ている」と言ってくださるのです。イエスさまは「それで十分である」と言われます。そのことで、イエスさまの弟子であることが証明されていると言われるのです。
神を信じ、イエス・キリストに従う歩みには理解されず、嫌みや批判を受け、時代や地域によっては迫害があるかもしれません。そのとき、イエスさまの御苦しみにあずかっており、イエスさまが共に苦しみを担っていてくださるのです。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(22節)インマヌエル=神は我々と共におられるとの信仰、天の国の希望、イエスさまからの愛により、わたしたちは忍耐をもって歩むことができるのです。アーメン。
(2025年2月2日礼拝説教より)