「核としての福音」
更新日:2025.2.3
ローマの信徒への手紙第1章8-17節
榮 忍 牧師
パウロはただ、自分が救われた信仰をそのままに伝えたい。神以外を神としないこと、十戒で禁じられている偶像崇拝は、刻まれた像だけでない。「自分の受け止め」を第一とし、対立する考えを認めず、排除しようとする人間の心も偶像化される。神を遠ざけながら、自分は神の側に立っている高揚感に包まれ、他者を裁く。この人間の愚かさに罪がある。パウロは、この手紙を自己紹介と絡めて神の恵みである「福音」を強調して始める。彼は使徒として神に選ばれ、福音を伝える。だが、彼はキリスト者を迫害していたのだ。イエスが自分に語り掛け、傲慢の罪が暴かれた。だが、断罪ではなく赦しと新たな使命を示され、「罪の赦しの福音」を知ることになった。喜びが訪れた。
ローマの教会の信仰が周辺に伝わっていることを感謝するパウロには、その教会を訪ね、語り合い、励まし合いたいとの希望がある。そこでなお「福音を告げ知らせたい」のだ。すでに信仰に生かされている教会においても、パウロは福音を分かち合うことで交わりを深め、力を得たい。一般的な交流ではなく、福音こそが教会の核となる。各自が受け止めた福音を語り合うことが互いの励ましとなる。現代の教会においても忘れてはならない点だろう。「わたしは福音を恥としない」と書くのは、「十字架で死んだ者を救い主とし、社会的敗北者を拝むのか」との批判を見る。格好よくありたい欲望に引きずられる人は、勝ち誇りたいのだ。しかし、打ち砕かれ、裁かれるはずの罪が赦されるその福音を核として、パウロは語り、書く。主イエスの宣教の初め「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信ぜよ」を思う。ユダヤ人も異邦人も、人種の隔てなく救いをもたらす神の力が「福音」にはある。そこに「神の義」が現われ、「正しい者(神の義を得た者)は信仰によって生きる」ことが共同体に実現する。
人間の不安は様々。不安解消には不安の元を断つことが必要だが、武装解除こそその道。神への信仰が道を開く。罰を与える権威においてのみ、赦すことがおできになる。犯した過ちは残っても、生かしてくださる神に感謝し、賛美を捧げよう。神のみが与えるその福音を核に据えて歩もう。アーメン
(2025年1月26日礼拝説教より)