「主が招いてくださる者(マタイ㊱)」
更新日:2024.11.18
マタイによる福音書 第9章9-13節
小林克哉牧師
イエスさまは徴税所に座っていたマタイをご覧になられます。徴税人は、当時ユダヤ人たちの中で、罪人として非常に嫌われていた人たちでした。汚れていると言われ、神の民の交わりから除外されていました。しかし、イエスさまは「わたしに従いなさい」(9節)と声をかけ、弟子として召され、一緒に食卓を囲まれたのです。神の憐れみがマタイを、神の国へと招いたのでした。
それを見たファリサイ派の人たちはイエスさまを批判しました。イエスさまは言われます。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(12-13節)神の憐れみによる招きを理解せず、拒むところにファリサイ派の人々の罪がありました。
以前、ある方が知り合いを教会に誘い一緒に礼拝に出席しました。何度か出席し「行く気になれない」と言われました。自分はそんなに悪い生き方をしているつもりはないのに、教会に行くと、「わたしたちは罪人である」と言われるからだでした。その気持ちは分からないでもありませんが、罪人であることがわかってくることにより、聖書が語る福音が見えてくるのも事実です。
ファリサイ派の人々は律法を遵守し、自分の力で義となろうと努力していました。人は自分が病気であると気が付かなければ、医者を必要としないものです。神に対する人間の罪は自分の力ではどうすることもできないと気づいて自分に絶望するとき、イエス・キリストの招く声を聞くのです。「わたしに従いなさい。」
イエス・キリストは徴税人マタイも、ファリサイ派の人々も、そしてわたしたちも、神の国へと招いておられるのです。イエスさまは、罪人が神の国の食卓に着くために十字架で贖いの死を遂げ、罪の赦しをもたらしてくださいました。誰もがこの十字架による罪の赦しに招かれているのです。神の憐れみそのものであられるイエスさまの招きに従いましょう。アーメン
(2024年11月10日礼拝説教より)