「不安なときには(特別伝道礼拝)」
更新日:2024.10.29
ヨシュア記 第5章13-15節
東京神学大学学長 神代真砂実牧師
イスラエルの指導者ヨシュアは独り悩み、不安でした。神が与えると約束した土地へ民を導き上る務めが与えられていたのです。ここまではどうにかやってきましたが、最初の戦をしなければなりませんでした。相手はエリコ、強敵です。加えて後任者として、偉大な指導者モーセと比べられることも避けられませんでした。負ければすべてが水の泡になってしまうかもしれないのです。責任を負い不安だったのです。
ヨシュアが目を上げると、前方に抜き身の剣を手にした一人の男が立っていました。ヨシュアは「あなたは味方か、それとも敵か」(13節)と問いかけました。神さまが天使を通してヨシュアに現れてくださったのです。ところが天使は「味方だ、あなたを助けに来た」と言うのでなく「いや」(14節)と答えました。
「いや」という言葉に、聖書の信仰の大切なことが語られています。真の神さまだからこそ手軽な安心を与えようとなさらないのです。わたしたちの不安を和らげるだけの神さまなら、それは結局わたしたちの都合に合わせられた神に過ぎず、心の安定を得るための道具にすぎなくなります。
わたしたちは自分で見つけ手に入れられるその場その場の手軽な安心を求めます。不安を何かでまぎらわせ、何かにすがり、誰かに打ち明け孤独を逃れようとします。しかしそれが本当の解決、いや絶対の解決になるでしょうか。不安でたまらない自分が不安でたまらない自分に助けを与えることができるでしょうか。不安を解決できる道は自分にはないのです。
「いや」というこのひと言が、神さまがわたしたちに奉仕するだけの奴隷のよう神ではなく、本当の神さま、わたしたちの主(あるじ)であることを示しているのです。「ヨシュアは地にひれ伏し拝し」ました。「わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」と言うしかありませんでした。「あなたの立っている場所は聖なる所である。」(15節)聖なる神と出会い畏れ、拝し、御言葉に従ったのです。まさにこの時、ヨシュアは自分を不安にさせていたあの責任が担えるようになったのです。わたしたちには本当の神さまを畏れ、拝み、従うことが必要なのです。アーメン
(2024年10月20日礼拝説教より/文責小林牧師)