札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「神の目はごまかせない」

更新日:2024.9.4

マタイによる福音書第7章15-23節

小林克哉牧師

イエスさまは弟子たちのこと、ご自身に従って来た日ち人のこと、そしてわたしたちの事を心配しておられるのです。だから言わずにはおられないのです。「偽善者を警戒しなさい。(15節)
イエスさまは「かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって予言し、御名によって悪例を追い出し、御名によって奇跡をいろいろと行ったではありませんか』と言うであろう。」(22節)と言われます。わたしはあれをしました、これをやりましたと言う人。イエスさまがではありません。神さまがではありません。わたしがです。自分にはあれがある、これができる。
悔い改めにふさわしい実とは神へと立ち帰り、神へと向かい、神を信頼し、神に求めることです。神さまが、イエスさまが与えてくださるのです。わたしには何もない。わたしは救われるにふさわしい者でない。自らの罪と貧しさを知り、ただ天の父に、主イエスさまにより頼むのです。
「すべて良い木に良い実を結び」(17節)とありますが、第一に「良い木」とはイエスさまのことです。イエスさまは十字架で良い実を結んでくださいました。「彼らは自らの苦しみの実りを見・それを知って満足する。私の僕は自らを負った。」(イエスさまが結ばれた良い実なのです。
そしてそのわたしたちが、イエスさまとつながり実を結ぶのです。 イエスさまとつながり、「アッバ、父よ」と祈り、神を礼拝する者に用いていただくのです。地の塩、世の光とされるのです。
わたしたちは、わたしたちの群れを通してイエスさまを信じ洗礼を受ける人が起こされる時に決して自分たちを誇ることはありません。わたしたちが誰かを救うことなどできないのです。しかし、イエスさまがわたしたちを用いて御業をなさるのです。ただイエスさまがなさる救いの御業に驚き、天の喜びにつらならせていただく実を結ぶのです。アーメン

(2024年8月25日礼拝説教より)

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