「土の器に」
更新日:2024.8.5
コリントの信徒への手紙二第4章4-15節
酪農学園宗教主事 朴美愛牧師
人間の肉体は『土の器に』例えられています。生涯をあらゆる病と闘って来られた三浦綾子さんの小説の題にも『この土の器をも』があります。『土の器』とは別に珍しい物でも、特に価値があるものでもなく、弱くて、壊れやすいものです。その器の価値とは用いられることによって決まり、中に何が入っているかによって変わります。『土の器に』宝を入れると宝箱、ゴミを入れるとゴミ箱になります。
では、人間の価値はどこから来るのでしょうか。パウロは、『土の器に』宝を納めているからであり、私たちは並外れた偉大な力を持っているのだと。この並外れた偉大な力が神のもので、私たちから出たものでないというのです。この偉大な力があるからこそ、人間は単なる『土の器』ではないということです。人間は『土の器』のような肉体だけではなくて、心、魂、人格、尊厳性など他の物とは換算できないものを持っています。
「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記第2章7節)と。神は土で形づくられた人の中に命の息、すなわち宝を納めたのです。「宝」は命、永遠の命イエス・キリスト、その力なのです。だから、神に従う人、神に仕える人は行きづまりのない、途方に暮れても失望しない、その強さは自分たちに与えられている「宝」のゆえだというのです。
私たちは土から作られた『土の器に』すぎないですが、この『土の器に』も、神が用いようと神の力を納めて、必ず用いてくださるのです。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』日々新たにされていきます。…わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(16~18節)これこそ、『土の器に』、『宝』、救い主イエス・キリストを納めた私たちの告白であることを改めて心に刻み新しい一週間を力強く生きましょう。
(2024年7月28日礼拝説教より)