札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「真実に必要なものを(マタイ⑳)」

更新日:2024.7.12

マタイによる福音書 第6章9-15節

小林克哉牧師

主の祈りの「わたしたち」にイエス様が入っておられます。いや、わたしたちの先頭に立って祈っていてくださるのです。
この祈りの中で、イエスさまが祈る必要のない祈りがあります。「わあれらの罪をも赦したまえ」です。神の御子イエスさまは罪がありません。ですから罪
の赦しを求める必要はないのです。ところが、イエスさまはわたしたちの先頭に立って、わたしたちを代表し、わたしたちと共に、「罪を赦したまえ」と祈ってくださるのです。
また「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく」といのられますが、この祈りはイエスさまは十字架で示してくださったように真実に罪を犯す者を赦すお方です。ところがわたしたちはこの祈りを祈るとき言葉に詰まってしまうのです。普段は心に蔦をして隠しているかもしれないけれども、赦せないこと、赦せない人があったりする。イエスさまはそのことをご存知の上で、一子の祈ろうと言われるのです。
イエスさまはわたしたちをどこまでも愛し、どこまでもわたしたちに必要なことが何であるかを知っていてくださいます。イエスさまは罪赦されることのみならず、罪赦すことが必要であることを知っておられます。イエスさまは、赦せないなら仕方がないねと言って放っておかれないのです。わたしたちにとって許せないということがどんなに、わたしたちを縛り付けるものになっているでしょうか。それが人生の足かせになっていないでしょうか。イエスさまは放っておかれないのです。自分の問題だから自分でどうにかしろと言われるのでもないのです。イエスさまはわたしたちを孤独にされないのです。いっしょに祈ってくださるのです。
人は祈りの中で変えられます。公の祈りである礼拝を考えれば分かります。礼拝に来る前と、礼拝を終えた後で、同じままであることはないのです。御言葉を与えられ、罪悔い改め、道を示され、愛と勇気を増し加えられ、新しくされるのです。それはイエスさまがわたしたちと共に祈ってくださるからなのです。アーメン

(2024年6月30日礼拝説教より)

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