「愛の負債を負って」
更新日:2024.7.1
ルカによる福音書 第23章32-34節
東京神学大学・成瀬が丘教会 小泉 健 牧師
イエス・キリストがお教えくださった主の祈りは世界中のキリスト者が祈っているものです。前半は神のための祈りです。神の御名、御国、御心のために祈ります。後半はわたしたちのための祈りです。何を求めたらよいのでしょうか。
まず「われらの日用の糧を今日も与えたまえ。」と祈ります。元の言葉では「そして」とあり、次の「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく我らの罪をも赦したまえ。」に続きます。この祈りは相互に結びついているのです。「罪」は「負い目」とも訳されますが、確かに、わたしたちはパンを食べるにも負い目を持たずには食べられないのではないかと思います。当たり前のように食事をするわたしたちですが、不当な賃金で働かされた人たちの手により食物があり、今日食事をすることができない人々が世界にいるのです。パンを得ることと、負い目を赦してくださいと祈ることは結びついています。
わたしたちには隣人への負い目があり、そして最も大きなこととして神への負い目があるのです。悪いことをして負い目があり、それ以上になすべきことをしないことにより負い目を持つのです。神の望まれる愛に生きず、なぜあの時助けなかったのか、なぜあの時手を差し伸べなかったのか。愛することにおいて負い目があるのです。
ある人が、わたしたちが理解できるのは愛している人のことだけであると言いました。親は赤子を愛し、だから赤子を理解します。表情や声でおむつかミルクか分かるのです。神はわたしたちのすべてを知っていてくださいます。全知全能だからと言うより、どこまでも深く愛していてくださるから、どこまでも深くわたしたちを知ってくださるのです。
人の罪を赦すことができないわたしたちのことを主は知っておられます。わたしたちは本当には主の祈りを一度も祈ったことがないのかもしれません。イエスさまは十字架の上で祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(34節)このイエスさまの十字架のもとで、わたしたちは祈り出すことができるのです。(文責・牧師 小林克哉)
(2024年6月23日礼拝説教より)