「幸いへの約束(マタイ⑨)」
更新日:2024.3.11
マタイによる福音書 第5章1-12節
小林克哉牧師
先日、ご高齢となり礼拝堂まで来ることができない方の施設を訪問し聖餐礼拝をしました。讃美歌を歌い、祈りを合わせ、聖書を読み説教し、聖餐にあずかりました。元気だったころは教会堂まで来て礼拝することが当たり前。与えられていた恵みにその時は十分気づいていなかった。「今日ここで礼拝できるなんて、なんて幸せなんでしょう」と言われるのです。わたしたちは今、イエスさまのもとで、礼拝し、イエスさまの御言葉を聞いています。改めて思うのです。皆さんは何と幸いなことでしょう。
「幸せ」「幸福」とは何でしょう。欲しいと思うものを手に入れられることが幸福であり、欲しいと思うものを手に入れられないことを不幸だと考えていないでしょうか。それが「幸い」の本当なのでしょうか? ここで語られる「幸い」とは神との関係を表している言葉だと説明されることがあります。
わたしたちは人と人との関係で幸せを感じることがあります。共に涙し共に喜んでくれる人がいる。それは幸せなことです。神との仲睦まじい関係が与えられているなら、そこに幸せがあり祝福と救いがあると言えるのです。神があなたを受け入れ、罪を赦し義とし、天の国に神の子として入れてくださる。この神の祝福を今この地上にあって信じ味わい感謝することは、何と幸いなことでしょう。
イエスさまは「心の貧しい人々は」と言われます。「自分の貧しさを知る人」と訳す人もいます。「ただ神を依り頼む人」との訳もあります。貧しさを知るとは、自分には何もないことを知ることでしょう。自分には何も頼るものはないと知ること、貧しさを知ることは、ただ神にのみ依り頼むことを知ることになると言うのです。
何もないなら、空のままで主の御前にいればいいのです。イエス・キリストはご自分の周りに集まって来た群衆、とりわけ弟子たちに祝福の言葉を告げられました。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」(3節)わたしたちに何もなかったとしても、主が「わたしが天の国を与える」と言ってくださるのです。何と幸いなことでしょう。アーメン
(2024年3月3日礼拝説教より)