「礼拝からもう一度始まる旅(降誕物語④)」
更新日:2024.1.9
マタイによる福音書 第2章1-12節
小林克哉牧師
学者たちは礼拝を目的として東の国からユダヤの地へとやって来ました。「礼拝」を知り、身に着けることは、信仰に生きる者にとって重大です。宗教改革者ルターはキリスト者の生活は聖なる神の御言葉に聞く生活だと教え、3つの言葉をあげました。オラチオ=祈り。メディタチオ=黙想。そしてテンタチオ=試練です。聖なる神に御言葉を語りかけられたなら聖なる神への愛と畏れを抱き、悔い改めさせられ、それまでの自分のままではいられなくなる試練に遭うのです。聖なる神の御前に出る礼拝とはそういうことなのです。
学者たちは聖なるお方の御前にぬかずき礼拝をささげます。「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(11節)「ひれ伏し」礼拝したのです。礼拝する人間となり、それまでの自分のままでいられなくなり、人生で手に入れた宝を手放しささげたのです。礼拝する人間として生きるようになったのです。
学者たちは貧しい赤子を「ユダヤ人の王」メシア、インマヌエルなるお方として礼拝しました。赤子のイエスさまのお姿は、すでに十字架のお姿を指し示しています。マリアから裸で生まれた赤子は時至り十字架におつきになられます。衣を剥ぎ取られ裸の姿、最も貧しい姿になってくださったのです。十字架の上には「ユダヤ人の王」(第27章37節)と書かれた札が掲げられました。十字架で死に三日目にご復活された主イエスさまの前に弟子たちは「ひれ伏し」(第28章17節)ました。わたしたちの罪と死を背負い身代わりになって十字架で死んでくださったお方こそ真の王メシア、わたしたちがひれ伏し拝むべき唯一の神であられます。
学者たちは礼拝を知る者とされたのです。「ところが、『ヘロデのところに帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」(12節)聖なる神を礼拝する以前の生き方にはもう戻れません。キリストを礼拝することを知った者として新しい旅が始まったのです。わたしたちもまた礼拝からもう一度始まる旅を生きる者とされ、新しい年を歩んでいくのです。アーメン
(2023年12月31日礼拝説教より)