「弱くても主の御言葉を守り(黙示録・七つの教会への手紙⑥)」
更新日:2023.11.21
ヨハネの黙示録第3章7-13節
小林克哉牧師
フィラデルフィア教会へのキリストのお言葉はお誉めと約束の言葉です。「わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。」(8節)「あなたは力が弱い」と言われていますが「力が小さい」と訳せる言葉です。フィラデルフィア教会は小さな群れだったかもしれません。
弱ければ強くなりたいと思うのではないでしょうか。小さければ大きくなりたいと思うかもしれません。しかしキリストは「あなたは力が弱い」。だから「悔い改めて強くなりなさい」とは言われないのです。「見よ、サタンの集い(会堂)に属して、自分はユダヤ人であると言う者たち」(9節)とありますが、ユダヤ教徒からの迫害を受けていたのかもしれません。だから強くなって、大きくなって、立場を逆転させ見返せというのではないのです。自分より小さい者を見つけて大きいと誇ればいいというのでもないのです。
人と比べてでも、人の前でどうかでもない。人がどう言うのかでも、人の言葉がどうかでもない。聖なる神の御前でどうかなのです。強がる必要も、自分を大きく見せる必要もありません。聖なる神の御前で自らの弱さを認め、小ささを認め、欠けを認め、罪を認めたらよいのです。仮面をかぶり偽善を抱えなくてもいいのです。キリストの目に見えている本当の自分を認めるのです。力弱きこと小さきことを認め、そこから主の言葉を信頼し守って歩むのです。
キリストは言われます。「わたしもあなたを守ろう。」(10節)フィラデルフィア教会はユダヤ人の会堂による迫害や妨害を受け、町の中で小さな存在に過ぎませんでした。わたしたち日本の教会も、わたしたちの群れも小さな存在に過ぎません。しかし主が守ってくださるのです。そして伝道の門を開いてくださるのです。ダビデの鍵を持つお方が開いたなら閉じることはない。自分たちで開くのではなく、イエス・キリストが開いてくださるのです。主の守り、主の強さがわたしを守り導いてくれるのです。アーメン
(2023年11月12日礼拝説教より)