札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「光の中を歩む交わりに生きる(Ⅰヨハネ1)」

更新日:2023.6.12

ヨハネの手紙一第1章1-10節

小林克哉 牧師

わたしたちの教会の礼拝堂正面、聖壇の上に「神是愛」という字が刻まれています。ヨハネの手紙一に記されている御言葉です。「神は愛です/神は愛なり(文語訳)」(第4章16節)。このヨハネの手紙一は神が、神こそが愛であられるということを伝えています。この手紙を読み終える時、共に「あぁ、本当に神こそが愛である」と告白する者たちとされたいと願っています。
御言葉は、神こそが愛であると告白する教会の姿を記します。「神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(7節)「神は光」(5節)、その光の中を歩む者たちは、御子イエスさまの血により罪清められた者として互いに交わりを持つ。それが神こそが愛であると告白する教会の姿です。
 光はその人の姿を明らかにします。神の御前では罪人でしかない自分の本当の姿があらわになるのです。人が「(わたしには)罪がない」(8節)「罪を犯したことがない」(10節)と言い張り、罪を認められないのは、罪の赦しを信じて歩む安心を知らないからです。そこにその人の福音理解の誤りが見えてきます。逆に安心して光の中を歩くことができるのは、神が愛であられること、御子イエスさまの十字架の血潮によって罪清めていただけることを知っているからです。
 ヨハネが「神は愛です」と語る時、それはわたしたちが常識に考えている〝愛〟ではありません。神の愛を知ったなら、わたしたちが経験してきたあらゆる愛の経験が、その前にひれ伏さなければならない〝愛〟のことです。マコトの神が肉をとりマコトの人となられ、十字架でわたしたちの身代わりとなって一方的に死んでくださった〝愛〟です。神こそが〝愛〟であることを知ったなら、「わたしには罪がない」などと言う必要はもうないのです。御子イエスさまの血により罪赦されるのですから、罪を告白することができるのです。
わたしたちは光の中を歩みます。神の前に十字架により赦されている罪を告白し、罪の赦しを信じて歩みます。神に一方的に愛され罪赦されたように、兄弟姉妹を愛そうとの交わりに生き始めるのです。アーメン

(2023年6月4日礼拝説教より)

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