「復活の主との再会により(ヨハネ60)」
更新日:2023.5.15
ヨハネによる福音書第21章1-14節
小林克哉 牧師
弟子たちは復活の主イエスさまとガリラヤ湖で再会しました。復活の主と初めてお会いしたのではありません。わたしたちもそれぞれの人生の中で、イエスさまとお会いし、召されて神の子とされ、キリスト者となりました。一度も教会生活から離れず教会人として生きてきた者があるでしょう。礼拝生活から一度離れた後、数年とか、場合によっては何十年も経って、再び戻って来た人もあるでしょう。人それぞれです。何才であってもイエスさまと再会し、そこからまた始まることができるのです。
漁師であったペトロは「わたしは漁に行く」(3節)と言い出しました。弟子たちはイエスさまがおられない舟に乗って、結果「その夜は何もとれなかった」(3節)のでした。そこにキリストなしの弟子たちの歩みがあります。それまでの漁の経験から一生懸命、舟の左側に網を降ろしていたのかもしれません。自分たちだけで、自分たちなりに実りを求めて働いたのです。しかし何もとれなかったのです。
このまま舟が岸に戻れば、弟子たちはもういっしょにいる理由がありませんでした。バラバラになるだけでした。その時、岸辺に人影があり声が聞こえたのです。「イエスは言われた。『舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。』そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。」(6節)
主イエスさまは先回りして待っておられたのです。自分の経験に基づき舟の左側に網を降ろしても何もとれないことから一転、主の御言葉に従う時に大漁が与えられたのです。自分の経験や知恵で努力しても何もとれないことを経験するわたしたちに示されるのは、御言葉に従うことです。
人生において、イエスさまはどこにおられるのかと思う時期を過ごすことがあるかもしれません。しかし、イエスさまは、わたしたちの人生に先回りして待っておられるのです。礼拝において、生けるご復活の主イエスさまはあなたが来るのを待っていてくださいます。礼拝において一人一人がこのお方と再会し、新しい歩みを始めるのです。この群れもそうです。わたしたちはイエスさまと再会し、ここから新しい歩みを始めるのです。
(2023年5月7日礼拝説教より)