札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「成し遂げられた救い(ヨハネ53・十字架の七言4)」

更新日:2023.3.13

ヨハネによる福音書第19章28-30節

小林克哉 牧師

人間の本当の渇きとは何でしょうか。詩編の詩人は「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。」(詩編第42篇2ー3節)と祈ります。
教父アウグスティヌス(4-5世紀)は、若き日に放蕩の限りを尽くしましたが、満たされず、当時流行ったマニ教(今で言えば哲学?宗教?)に心酔します。そんなある日、アウグスティヌスは教会で説教を聞き変えられます。「あなたはわたしたちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですからわたしたちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」(『告白』)神に渇いていたのです。そして神により潤ったのです。
わたしたちは何に「渇く」と感じているでしょうか。あるいは、わたしたちは神に向かって何に「渇く」と呻き嘆いているのでしょうか。病になれば健康に渇き、人間関係で悩めば改善を願います。経済的なこと、精神的なこと・・・・。わたしたちが神に求めて祈るのは神ご自身のことではなく、それ以外のものではないでしょうか。
イエスさまはマコトの人となられたお方として、わたしたちの渇きを知っていてくださいます。わたしたちが「渇く」と呻く時、わたしたちはそこで「渇く」と言われる十字架のイエス・キリストと出会うのです。渇きに気づかずそのままにしていると人は大変なことになるでしょう。ところが、わたしたちは神への渇きに気がつかずにいるのではないでしょうか。イエスさまは「渇く」(28節)と言われます。わたしたちに代わり、わたしたちと共に神を求め「渇く」と祈ってくださる方がおられるのです。十字架のイエス・キリストにより、わたしたちは神のうちに憩い安らぎを得るのです。
イエスさまは十字架の上で「成し遂げられた」(30節)と言われました。その時、誰が気づいていたでしょうか。神の独り子が、十字架で神の小羊として贖いの死を遂げられ、そのことにより御子を信じる者は罪赦され永遠の命を与えられるのだと。そのことに気づいたらどうするでしょうか。イエス・キリストにより成し遂げられた救いの恵みを受け取り神に憩いを見出すでしょう。

(2023年3月5日礼拝説教より)

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