「真理とは何か(ヨハネ50)」
更新日:2023.1.30
ヨハネによる福音書第18章28-40節
小林克哉
何が真理であるのか分からなくなっている時代と社会に生きています。価値が多様化し規範は喪失しています。そのような時代や社会に生きることは大変不安定なことでもあります。楽しさを消費しその瞬間をごまかして生きることで精一杯になっているのかもしれません。絶えず不安や焦りが心を支配していていないでしょうか。科学とテクノロジーの発展を誇りながら、どうして占いの類いは人気を博し続けているのでしょう。口コミでもSNSであっても、「これがいいよ」との噂や情報に人々は流され殺到していきます。
大祭司たちは、イエスさまが神と一つである真理が示されても、真理に従って自分たちが変わるのではなく、真理を亡き者にしようとしました。ピラトは、無罪だと分かっているイエスさまに死刑判決をくだしました。自分の立場を守ろうとしたのです。群衆は、扇動されてか、「その男ではない。バラバを」(40節)と大声で叫びます。その結果について真剣に考えてなどいません。その時々の情報や噂に流され、高揚して無責任なことを言うのです。それがわたしたち人間の主張する真理や正しさなのかもしれません。
この世が主張する真理とは何なのでしょうか。聖書はその真相を、神でないものを神にしていることでないかと言うのです。ピラトは問います。「真理とは何か。」(38節)聖書はイエス・キリストこそが真理であり、イエス・キリストにこそ真理が示されていると言うのです。真理はすでにあるのです。これから捜して発掘しなければならないのではないのです。イエスさまは言われます。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」(37節)
イエス・キリストは真の神を証しされました。この真理がわたしたちを自由にします。健康も経済問題も人間関係も神ではないのです。たとえ病を得ていても神を信頼し平安の内を生きることができるのです。貧しくても感謝して生きることができるのです。たとえ人間関係を抱えていても、愛に生きる一歩を踏み出すことができるのです。真の神を神とする真理が与える自由をわたしたちは生きることができるのです。アーメン
(2023年1月22日礼拝説教より)