札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「生きるにしても、死ぬにしても」

更新日:2022.10.31

ローマの信徒への手紙 第14章1-9節

東京神学大学教授・橋本教会
須田 拓牧師

わたしたちは生きがいや生きる意味、生きる目的を求めます。聖書は「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」(7-8節)と言っています。主のために生きるのです。聖書は、あなたには<主のために>という人生の意味がある、<主のために>という生き方があると語りかけるのです。
日本近代画家保田龍門は東京芸大の卒業製作にあたり貧しく絵の具も買えず意気消沈し故郷に帰りました。しかし母親が励まし、母親がモデルとなり「母の像」を完成させます。その後、フランス留学中に母親の死の知らせを受けます。龍門は詩を書きました。「母上よ、私はあなたの墓標となりたい/わたしをあなたの墓標としてください」。人は墓の前に立つとき、その墓標を見て埋葬されている方を生き生きと思い起こすことができます。母がいなければ画家のわたしはいない。龍門は、わたしはあなたを表す者としてくださいと思ったのでしょう。墓標になりたいと。
この話を取り上げ、ある牧師は「これこそがわたしたちキリスト者のモデルだ」と言いました。このわたしが今キリスト者としてあるのは、ただキリストのゆえです。神がわたしたちを受け入れてくださったのは、キリストのゆえ、キリストの十字架の血潮のゆえです。そうであるなら、わたしたちも「わたしをあなたの墓標としてください」と祈るのではないでしょうか。
コルベ神父はアウシュビッツである人の身代わりとなって死にましたが、戦争後、その人はコルベ神父のことを周りの人々に伝えずにはいられませんでした。「今のこのわたしがあるのはあの方のお陰です。」わたしたちも同じようなことを経験するなら伝えずにはいられないでしょう。「このわたしのために命をかけてくださった方がある。」わたしたちもそうされているのです。わたしが今、神さまに捕らえられ神の子とされているのは、わたしのために十字架で命をかけてくださったお方がおられるからです。このお方のために生き、このお方の墓標になりたいのです。アーメン

(2022年10月23日礼拝説教より/文責小林牧師)

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