「キリストの友とされた人(ヨハネ41)」
更新日:2022.9.28
ヨハネによる福音書第15章11-17節
小林克哉牧師
本日は召天者記念礼拝です。先に地上の旅路を走り終え、神の御許、天に召された兄弟姉妹を覚えて礼拝をささげています。今朝の御言葉は、先に召された兄弟姉妹がキリストの友とされた人たちであり、わたしたちもまたイエス・キリストの友とされる者たちであると教えています。
「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」(15節)弟子たちにとってみれば、思わぬことをイエスさまは言われたのです。真の親友とはすべてを打ち明けることができる相手です。自分を受け入れてもらい、違うことは違うと言ってくれる関係です。イエスさまは弟子たちにご自分のすべてを打ち明けられました。御父と御子が一つであること、十字架に上げられねばならないこと。そしてイエスさまは弟子たちのすべてを受け止め受け入れられました。失敗も欠けも離反も罪も、分かって友となられ、十字架へと向かわれるのです。分かった上で友として親しい交わりを持たれようとされるのです。
友人のグループにはそれぞれの雰囲気があります。似た者同士が集まる面と互いに影響し合う面があるでしょう。イエスさまのもとに集まった者たちは、イエスさまの愛に感化されていきました。そこに弟子たちの雰囲気があったと思います。厳しくも深い愛に生きる。神の愛、それは十字架の愛です。聖なる愛です。敵をさえ友とし、その友のために命を捨てる愛です。十字架の愛が、そこに生きる人々を変えていくのです。
イエスさまは言われました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(12-13節)イエスさまはわたしたちを友としてくださり、友であるわたしたちのために十字架で命を捨ててくださいました。どこを探してもこれ以上の愛はありません。それは罪を赦し、永遠の命を与えてくださるためでした。天にある者も地にある者もイエス・キリストの友とされ、その救いに入れられるのです。そして、イエス・キリストにつながり、友のために生き、死ぬ者とされるのです。わたしたちは「自分のために」から「神のために」「友のために」生き死ぬ者へと変えられて行くのです。アーメン
(2022年9月18日礼拝説教より)