「世にいる弟子を愛する洗足の主(ヨハネ36)」
更新日:2022.8.22
ヨハネによる福音書第13章1-20節
小林克哉牧師
「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(1節)イエスさまは「世にいる弟子たち」(1節)を愛し抜かれました。
〝世〟とは神に背くこの世界のことです。世にいる弟子たちは、イエスさまの御言葉を聞いても守ることができないことがあります。イエスさまは、「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」(第12章47節)と言われました。
ペトロら弟子たちは、この後、離反し、イエスさまを見捨てて逃げ去ります。イスカリオテのユダは裏切り、わずかな金でイエスさまを売り渡します。イエスさまは裁かない。救うために来られたのです。イエスさまは世にいる弟子を最後まで徹底して極限まで愛し、愛し抜かれるのです。
わたしは十五歳の時に洗礼を受けました。洗礼を受けたら清められ、一瞬にして心も変えられるのでないかと淡い期待をしていました。しかし、洗礼を受けても変わらず罪の思いを抱き、神に背く罪を犯す自分がいました。洗礼を受け清められたにもかかわらず、その後も罪を犯し続けてきました。
洗礼により人は罪から清められます。しかし、その後、この世を生きれば足が汚れます。イエスさまは洗礼を受けたら、もうその後のことは知らない、自分でどうにかしなさいとは言われません。愛し抜かれます。再洗礼の必要はありません。今日もイエスさまはわたしたちの足を洗ってくださるのです。礼拝で、説教で、聖餐で、清められるのです。それは、イエスさまが十字によって示された愛で、今も仕えていてくださっているということなのです。
「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」(14節)教会とは互いに悔い改め、罪の赦しの中で生かされて行く群れです。最後まで、徹底して、極限まで、愛し、愛し抜かれるイエス・キリストに支えられながら、歩み続けたいと願います。アーメン
(2022年8月14日礼拝説教より)