「主イエスが世の光だから(ヨハネ24)」
更新日:2022.5.6
ヨハネによる福音書第8章12-20節 (新181頁)
小林克哉 牧師
時は仮庵祭の最終日だったかもしれません。仮庵祭は、エジプトで奴隷であったイスラエルの民が救い出され、約束の地へと向かい荒野を旅したことを思い起こす祭りでした。荒野の旅で、主は、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって、民にそのご臨在を示し、民に進むべき道を示されました。約束の地へと向かう旅、地図もGPSもない中、主のご臨在が火の柱によって示されるのは、闇夜の中ではどんなに心強かったかと思います。火の柱に従っていればいいのです。
いったい、わたしたちは誰に、何に従えばよいのでしょうか。コロナ禍。戦争。どのリーダーに従うか、どの情報を信じるかで行き着く先が変わってしまうのです。一人一人の人生においてもそうでしょう。人類が従うべきは何でしょう。わたしたちの教会が従うべきは何でしょう。「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず」(12節)とイエスさまは言われます。
仮庵祭の始まりには、境内に赤々と燃える燭台が輝いたようです。最終日、既に燭台の光はなくなっている中、イエスさまは宣言されたのです。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(12節)イエス・キリストは世の光です。世とは神に造られ生かされているにもかかわらず神に背く世のことです。イエス・キリストは世を照らす光です。光は暗闇に隠されていた罪を明らかにしますが、イエスさまに従う者に対しては、罪の赦しをはっきりと示す世の光なのです。
世の光であるイエスさまが来られたのです。暗闇の中で隠れていた罪がはっきりと示されます。そして、それと共に。いや、それに先立ち罪の赦しがはっきり示される。だから悔い改めるのです。悔い改められない者、十字架のイエスさまを信じない者は、自ら罪に留まり裁かれているのです。わたしたちは罪人でありながら、命の光を持ち、罪の赦しの中をキリストに従って歩むことができるのです。罪人でありながら、神との愛の交わりという命の中に生きることができるのです。
定期教会総会を終え、2022年度の教会の歩みが本格的に始まりました。イエス・キリストに従い歩む一年としましょう。(12節)アーメン
(2022年5月1日礼拝説教より)