札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「十字架の主のそばに立とう(棕櫚の主日)」

更新日:2022.4.18

マルコによる福音書第15章25-39節 (新95頁)

小林克哉 牧師

イエスさまは大声で叫ばれました。「『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(34節)罪なきお方が、人々の罪を背負い、神の裁きと呪いを受けてくださったのです。
イエスさまは御自分が十字架につくことについて弟子たちにこう語っておられました。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(9章45節)。今、多くの人の身代金としてイエスさまの命が献げられるのです。「イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がいの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取るのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」(37-39節)
百人隊長が目撃したのは、権威ある説教を語るイエスさまでも、力ある業をなさるイエスさまでもありません。ただ弱り果て、服さえはぎ取られ何一つ持たない、どこまでも貧しくなられ、どこまでも低くなられたお方です。人々にあざけられ沈黙し、最後には神に見捨てられたと大声で叫ぶ。どこを捜しても百人隊長が「神の子だった」と告白する理由は見当たらないのです。しかし百人隊長は信仰の告白をしたのでした。
もし聖書が証言し、神が示してくださらなければ告白することはできないのです。百人隊長が告白したのは神の啓示による奇跡です。弟子たちも気づかなかったのです。ユダヤ教の指導者たちも気づかなかったのです。神の選ばれた民であるはずのユダヤ人たちも気づかなかったのです。神は十字架のイエス・キリストに隠れておられるのです。
いったい、十字架で何が起こっているのか誰がわかるでしょうか。聖なる愛であられる神が、御子を見捨てられるのです。決して見捨てないお方が見捨てるところに聖なる愛があり救いがあるのです。永遠から永遠において完全な愛で結ばれている御父と御子、その御父が御子を見捨てられるのです。神から見捨てられる十字架のイエスさまに、神は隠れておられるのです。ここにこの世界の救いが隠れているのです。

(2022年4月10日礼拝説教より)

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