「《灯 台》信仰に基づく祈り」
更新日:2021.6.21
ヤコブの手紙5章13~20節(新約426頁)
小林克哉牧師
ヤコブは、「祈り」は「信仰」により生じると言います。「信仰に基づく祈り」は他の訳では「信仰による祈り」とあります。真の「信仰」が与えられている。だから祈ることができると御言葉は言うのです。
四面楚歌とか八方塞がりという言葉があります。前にも後ろにも横にも行くことができないし逃げることもできない状況、絶望です。ユダヤの民は、絶望を天が閉ざされると表現しました。信仰を与えられている者は知っています。四方八方が塞がれていても天が開かれているなら希望があることを。わたしたちが苦しんでいる人に祈りなさいと言えるのは、天が開かれているからであり、祈りを聞いてくださる神がおられるからなのです。そこに「信仰」があるのです。
信仰による祈りとは、人間の強い信念に基づいて祈るということではありません。御言葉は「主」を強調しています。主なる神は無から天地万物を創造されたお方、イエス・キリストを死人たちの中から甦らせたお方、神は終わりの日に新しい天と地、永遠の御国を到来させることがおできになるお方です。主は病人を起き上がらせ、十字架により罪を赦し、3年続く干ばつの地に雨を降らすことがおできになるお方です。主が、事実それがおできになるお方であることを知り、主がわたしたちを愛しその罪を赦すため身代わりとなって十字架で死んでくださったお方であることを知り信じるのが「信仰」です。その「信仰」により、その「信仰」に基づき祈りが生じる(与えられる)のです。
わたしたちが熱心に祈ることができるのは、より頼むべき神がおられるからです。先日、コロナ禍となってから礼拝に来ることが出来ていない兄弟姉妹たちに電話をしました。電話を切る前に、どなたとも一緒にお祈りをしました。ある方が祈り終えると、闇に光が差してきたように思うと言われました。天が開かれその方に神の光が射してきたと、主に感謝しました。
コロナ禍の今、御言葉はわたしたちに真の「信仰」が与えられていると言います。だから「祈りなさい」と。苦しんでいる者も喜んでいる者も、病気でも罪を犯していても祈ることができる。なぜなら「主」がおられるからです。わたしたちは信仰により、信仰に基づいて祈ることができるのです。
(2021年6月13日礼拝説教より)