札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「信仰に基づく祈り」

更新日:2021.6.14

ヤコブの手紙 第5章13~20節 (426頁)

小林克哉牧師/説教代読:加藤康夫兄

【説教】 このヤコブの手紙の冒頭での挨拶の言葉に倣い、皆さんにご挨拶いたします。神と主イエス・キリストの僕である小林克哉が、札幌教会に連なる兄弟姉妹、求道の友の皆さんにご挨拶いたします。わたしたちの父である神と主イエス・キリストの恵みと平安が聖霊により皆さんの上に豊かにありますように、アーメン。
今日は緊急事態宣言のため当初説教の予定であった函館教会の松本紳一郎牧師が来ることができなくなりました。そこでこの手紙を礼拝において読んでいただくことにより、御言葉のメッセージをお伝えしたいと思います。今日は説教に先立ち、鈴木泰子姉妹にお証しをしていただくようお願いをしました。教会役員会で、コロナ禍の今、また牧師交代の時、教会の祈りを大切に守るためにはどうしたらよいのか話し合われました。水曜日の祈祷会が休会となり、主日礼拝後に祈りの時を持つようになっていますが、その教会役員会において、主が鈴木姉妹を祈りの奉仕の依頼を担う者として用いてくださっていることを知りました。そこで教会の祈りのために奉仕をする中で、神さまから与えられた恵みを証ししてくださいとお願いしたのでした。
キリストの教会にとって「祈り」は欠くことのできないものです。「祈り」のない教会は、もはや教会ではありません。広い意味では、この主日礼拝もその最初から最後までで一つの祈りをささげているものであると言うことができます。わたしたちにとって欠くことのできない「祈り」はどこから生じてくるのでしょう。「わたしの願い」でしょうか。そうであるなら、願いがない時は「祈り」は生じないし、祈らなくてもよいということになります。公の祈りである礼拝もしなくてよいということになりかねません。今朝の聖書の御言葉で、ヤコブは「祈り」は「信仰」により生じるのであると言うのです。
15節に「信仰に基づく祈り」とあります。他の聖書翻訳には「信仰による祈り」としているものが複数あります。ヤコブはこの手紙であなたがたには真の「信仰」が与えられているはずだと呼びかけています。わたしたちにも真の「信仰」が与えられているのです。だから祈ることができるのです。苦しんでいる者もです。喜んでいる者もです。病気でも、たとえ罪を犯してしまっても祈ることができるのです。
御言葉はわたしたちに祈るように勧めます。13節「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。」日本ではどうすることもできなくなる状況を四面楚歌とか八方塞がりなど言います。前にも後ろにも横にも行くことができないし逃げることもできな状況、絶望です。ユダヤの民は、絶望を天が閉ざされると表現しました。信仰を与えられている者は知っています。四方八方が塞がれていても天が開かれているなら希望があることを。苦しんでいる人に祈りなさいと言えるのは、天は開かれているからであり、祈りを聞いてくださる神がおられるからなのです。そこに「信仰」があるのです。
御言葉が祈るように勧めるのは苦しんでいる人だけではありません。13節後半から。「喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。」ヤコブが「信仰」について強調する点を聞き漏らさないようにしなければなりません。ヤコブは「主の名によって」と言い、「主が」と言います。
一年ほど前にわたしが使っていたパソコンが突然動かなくなりました。教会員の会社の方にとてもパソコンに詳しい方があり、以前にも助けてもらったことがあったのでSOSしました。ご厚意で助けてくださりパソコンのデータを復旧することができ、大変助かりました。わたしがその方を信じて頼んだのは、その方が事実それができる方だからです。
皆さん、信仰とはわたしたちの信念のことではありません。信仰による祈りとは、人間の強い信念に基づいて祈るということではないのです。「主」が強調されているのです。主なる神は無から天地万物を創造されたお方です。主なる神はイエス・キリストを死人たちの中から甦らせたお方です。主なる神は終わりの日に新しい天と地、永遠の御国を到来させることがおできになるお方です。主は病人を起き上がらせ、十字架により罪を赦し、3年続く干ばつの地に雨を降らすことがおできになるお方です。主が事実それがおできになるお方であることを知り、主がわたしたちを愛しその罪を赦すため身代わりとなって十字架で死んでくださったお方であることを知り信じるのが「信仰」です。その「信仰」により、その「信仰」に基づき祈りが生じるのです。
わたしたちが熱心に祈ることができるのは、より頼むべき神がおられるからです。だから実りを待ち望み、種を蒔くことができるのです。17節「エリヤは、わたしたちと同じ人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年にわたって地上に雨が降りませんでした。しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました。」
ヤコブは祈りについて語って来た最後にこう言います。19節「わたしの兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ戻すならば、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです。」真理から迷い出てしまうとは、教会生活から離れてしまった人のことや、間違った福音理解に陥っていた人たちのことでしょうか。試練や苦しみ、病気で神が見えなくなったり、罪を犯し真理から迷い出ることもあるでしょう。しかし神は連れ戻すことがおできになる方であるとの信仰に基づいて、わたしたちは祈ることができるのです。
わたしは5月最後の主日に礼拝の奉仕をするため札幌に参りましたが、その際にコロナ禍となりしばらく礼拝に来ることが出来ていない兄弟姉妹たち十人くらいに電話をしました。教会堂に来ることは控えているけれども、札幌教会の礼拝に思い合わせて家で聖書を読み祈っていますと、家での様子を教えてくださる方もありました。コロナ禍となりやはり不安の中、いや闇の中にいるような思いになっている方もあることを知りました。電話を切る前に、どなたとも一緒にお祈りをしました。ある方が祈り終えると、闇に光が差してきたように思うと言われました。天が開かれその方に神の光が射してきたと、主に感謝しました。
祈りは隣人愛に生きる道でもあります。ヤコブは隣人愛としての祈りを代表するもものとして、病者を訪問し祈ること、罪の告白を聞いて一緒に祈ることを上げています。礼拝後の祈りで、教会に来ることができない方々のために祈る時、悲しみや嘆きの中にある人々のために祈る時、それは隣人愛に生かされている恵みでもあるのです。コロナ禍の今、牧師交代の時、しかし御言葉はわたしたちに真の「信仰」が与えられていると言います。だから「祈りなさい」と。苦しんでいる者も喜んでいる者も、病気でも罪を犯していても祈ることができる。なぜなら「主」がおられるからです。わたしたちは信仰により、信仰に基づいて祈ることができるのです。

【祈り】 天の父よ、信仰により祈ることができる恵みを心より感謝申し上げます。わたしたちは苦しみの日に御名を呼び、喜びの日に御名を賛美し、互いに祈り合う幸いを与えられています。病む者をいやし、弱っている者を立ち上がらせてください。罪のゆえにくずおれる者に赦しの御声を聞かせてください。一週の旅路に遣わされるわたしたちです。この世で果たすべき務めを祝福してください。すべての家庭に愛と信頼が増し加えてください。争い、災害、疫病の脅威の中にある人々を守り、この世界に平和を来たらせてください。キリストの教会が信仰に基づき祈り、御言葉を宣べ伝えていくことができますように。求道の友に洗礼の恵みをお与えください。新しい一週の歩みを御手にゆだね、救い主イエス・キリストの御名によりお祈りいたします。アーメン

(2021年6月13日 代読説教)

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