「赦されて生きる」
更新日:2021.5.10
ルカによる福音書17章1-4節 (新約142頁)
北広島教会 菊地 啓示牧師
「わたしにつまずかない者は幸いだ」とイエス様は仰います。足もとをよく見ずに歩くとき、わたしたちは何かにつまずきます。そのように、生活の只中に共におられるイエス様をよく見ず、語られる御言葉を聞かずに生きるとき、わたしたちは「イエス様につまずく」のだと思います。
主なるイエス様を差し置いて自分勝手に歩き回ってはつまずくようなわたしたちですけれども、イエス様は「そんなことでは駄目ではないか」と叱るのでなく、「つまずきは避けられない」、と言ってくださいます。つまずいて座り込んだり、考え込んでしまうようなその場所に、イエス様は身を低くして待っておられ、「つまずかない者は幸いだ。でもあなたがつまずいてくれたから、わたしは今あなたと出会うことが出来た」と喜んでくださる御方であると信じて感謝します。
しかしながらイエス様は同時に「だが!」と言われます。「(つまずきは避けられない、)だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである」。大変に厳しく、恐ろしい言葉です。重たいひき臼を首にかけられて海に投げ込まれたら、二度と浮かび上がってくることはできません。イエス様は、人をつまずかせる者は、海に沈んで二度と浮かび上がってはならないと言われるのです。
わたしたちはつまずきやすい者であると同時に、また誰もが人をつまずかせてしまいやすい者でもあると思います。自分自身の頑なさを「つまずきの石」のようにして隣人の前に置き、イエス様の素晴らしさをではなく、自分の醜さを見せつけてしまう、つまずかせてしまうことがしばしばあるものです。けれども、そのように罪深い、深い海に沈められて当然のわたしたちに代わって、主イエス様は十字架に死んで葬られました。ひき臼のように重いわたしたちの罪をその身に負って、わたしたちではなくイエス様が深い陰府にまで沈んでくださいました。この赦し恵みの中を歩ませていただけるとは何と幸いなことでしょうか。
(2021年5月2日礼拝説教より)