「キリストの復活」
更新日:2021.3.12
コリントの信徒への手紙一15章1-11節
米倉美佐男牧師
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。」(3節)
レントの第3主日礼拝です。主の十字架の歩みを思いながらイースターを目指して一歩一歩進んでいます。教会の信仰の中心は十字架と復活にあります。いつの時代でも自分に合う仕方で合理的に解釈しようとする試みがなされます。聖書の記述のある部分は教会の創作、パウロの創作であるという学説もあります。復活もそのような説明で語る学者もいます。もっともこの書に見られるように教会の最初の時代からグノーシスとの戦いがありました。
この章に入りパウロはコリント教会からの質問に答えるのではなく、信仰生活を教会を造り上げるため、即ち教会を建てるための道筋、教理を教えます。その中心が十字架と復活です。聖書に書いてある通り「わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したこと、ケファはじめ12人の使徒たち、500人以上の兄弟たちに同時に、ヤコブ(主の兄弟)、すべての使徒に、最後にわたしパウロにも現れてくださった。
キリスト教信仰の核がイエスの伝記とか、奇跡、説教にあるのでなく、十字架と復活にあることを明確に示しています。主の十字架はわたしたちの罪の贖いのため、復活は救いの恵みの成就としての三日間を経て聖書の預言通り実現したことを証するのです。わたしたちの生もまた死との関係で、キリストの葬りと復活によって確かな恵みとして味わうことができるのです。「死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(ロマ14章9節)からです。
十字架と復活の教理は、それを過去の出来事として終わらせるのでなく、今も生きて働いてわたしたちと共におられる主イエスを正しく迎えるためにあるのです。主を迎えるか拒絶するかが問われます。
パウロは復活のイエスの顕現が信じる者たちに与えられたという事実を示しました。パウロは謙遜な言い方で一番遅く弟子のひとりに加えられた自分にも主が現れて捕らえてくださった。彼はうれしかったのです。その喜びをわたしたちも味わうことができるのです。主を救い主と信じることができるならば。その福音を宣べ伝えましょう。
(2021年3月7日礼拝説教より)