「何人かでも救うため」
更新日:2020.11.6
コリントの信徒への手紙一9章19-27節(新約311頁)
「何とかして何人かでも救うためです。」(22節)
パウロは自分を自由な者、誰に対しても自由な者だと言い、だがすべての人の奴隷になったと言います。奴隷と自由は互いに反することだと思うのですが、彼にとっては彼の中では見事に融合しているのです。9章の後半に展開されている記述からパウロと言う伝道者の姿が明らかに浮かび上がってきます。一言で言うならキリストの僕です。そしてそれはパウロの専売特許でなくて本来すべての信仰者に求められてしかるべきことなのです。
彼は伝道者として働く時、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」(23節)と言いました。そしてその目的はここに集約されています。その目的は「何とかして何人かでも救うため」だったのです。ユダヤ人にはユダヤ人のように、律法に支配されている者には支配された者のように、律法を持たない人には持たない人のように、さらに弱い人に対しては弱い人のようにと言っています。
彼は決して場当たり主義者ではありません。むしろ彼の懐の深さ、度量の大きさを示しています。とはいえ、かなり繊細な人物です。他人の痛みが分かるのです。だから自分がしてきたことを主によって赦されたことが嬉しくてうれしくてならないのです。だから一人でも多くの人にこの確かな恵みを伝えたい、知って欲しいのです。そのために伝道者として主に仕えたのです。そして同胞ユダヤ人の救いも何よりも祈っていました。パウロはどうもスポーツ好きであったようです。後半彼が述べているのは信仰者もスポーツ選手のようにキリストの救いというゴール目指して節制して信仰生活を全うしようよというエールなのです。最後の27節は彼らしい言葉で締めくくっています。「他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないため。」爪の垢を煎じて飲まねば。
(2020年11月1日礼拝説教より)