「召されたときのままで」
更新日:2020.10.2
コリントの信徒への手紙 一 7章17-24節(新約P307)
米倉 美佐男 牧師
「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。」(17節)
本日をもって札幌教会の主任担任牧師を辞します。とはいえ、来年の3月まで代務として残ります。本日礼拝後に後任牧師招聘のための臨時総会を致します。2009年4月に赴任し、11年余り共に礼拝を献げることができ感謝です。
札幌教会の牧師として語る最後の説教ですがいつもの続きでいたします。
ここでパウロは奴隷であるか自由な身であるかという、当時の社会的身分制度の中で、教会員が信仰者として如何に生きるべきかについて語ります。今日的価値観では肯定的には考えられない内容が示されますが、彼が語っていることは今の私たちにも聞くべき大切なことを示しています。
当時の社会では様々な事情で奴隷の身分になった人たちがおり、奴隷たちも教会に大勢いたのでしょう。もちろんローマの市民権を有する自由人たちもいたのです。
この部分には3度「召されたときのままで」と述べられています。17,20,24節。その間に割礼の有無、奴隷か自由人かということが挟まれて語られています。召されたと訳された(クレーシス)は身分、職業とも訳せます。つまり身分にこだわらず、召されたときの身分のままで良いと示されたのです。ユダヤ人であろうが外国人であろうが男でも女でも自由人でも、奴隷でも、教会ではみな同じと言う当時の世界では画期的な考えが提示されたのです。
パウロが伝えようとした最も大事なことは十字架と、復活です。彼は何にこだわるかを示しました。国籍だとかその国の風習、慣習ではなく、信仰者ならば、大切なのは神の掟を守ることだと言います。割礼のあるなしは問題ではなく、神の掟を守ることが大事、その意味は十字架の主イエスに従い、キリストの奴隷として生きることなのです。
(2020年9月27日礼拝説教より)