「恵みによって選ばれた者」
更新日:2020.3.11
ローマの信徒への手紙11章1-10節 (新約289頁)
米倉 美佐男牧師
「神はご自分の民を退けられたのであろうか。」(1節)
先週は、「主の名を呼び求める者は誰でも救われる」それがキリスト教信仰の真髄だと申しました。復活のキリストを信じ告白するなら、ユダヤ人も異邦人もなくだれでもキリスト者になれるのです。それなのに何故イスラエルが避けられたのかをパウロは論じています。選びの民であるイスラエルがつまずいたのは彼ら自身の不信仰のせいでした。けれども同胞の救いを祈り求めていたパウロは、イスラエルは神に捨てられたのではないと言います。
ここのキーワードは「残りの者」です。この語は旧約聖書の中の重要な考えの一つです。パウロはさりげなく言っていますが自分はイスラエルでアブラハムの子孫、ベニヤミン族、つまり由緒正しき家柄でエリートだと言います。けれどもそれらをキリストに出会ってからは全く価値のないものだと思うようになったことも。その自分が今や異邦人の使徒として用いられている。神はいつの時代にも必ず必要な者を残される。それが選ばれし者です。
パウロが語っている時代も今の時代も神によって残された者がいるのです。ここにいる私たちも残された者の一人であるのです。しかし、残された者自身が自分を残された者と誇りだしたらそれはかたくなな、つまずきのイスラエルと同じになってしまいます。だからパウロは言います、神の恵みは条件ではない、行いの結果でもないのだと。
最後の9-10節は詩編69編22-23節から終わりの時を見据えて語ります。罠(わな)や網は滅びを意味しています。つまずきが原因です。10節は呪いの言葉、裁きの言葉です。メシアの時、終末の時を覚えて歩みを整えなさいと言うのです。ちょうど今の状況も私たちに問いかけています。み言葉に正しく聞き、神のみ旨がどこにあるのかを選びの民は心静かに聞くのです。
(2020年3月1日礼拝説教より)