「誉れは神から来る」
更新日:2019.7.17
ローマの信徒への手紙2章17-29節 (新約275頁)
米倉 美佐男牧師
「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。」(28節)。
パウロが指摘しているのは信仰に優先順位はないということです。正確に言うならユダヤ人の優先権はありました。でもそれを立てにして先の者が後の者を劣ったものと見るのは誤りだとパウロは指摘します。確かにイスラエルとして神の民として選ばれたのです。ところがその傲りで彼らは堕落したのです。あなたがたが自負するのは異邦人は律法を知らない、自分たちはよく知っている、神の御心を誰よりも知り、律法に従って何をなすべきかをよく弁えているという。
パウロが念頭に置いているのは自らも所属していたユダヤ人の中でも律法に精通していたファリサイ派でした。その指導者であったからこそ言えることでした。信仰を求める上で大切なことは神の御心を求めることは当然です。神様のみ旨を知ることが大事です。しかし、そのように実践していると自負して異邦人を無知で未熟とすることはあってはならないことです。
正しい道を歩むことのできない者たちを正しく導き得る教師であると言うならなおさら自分を律して盗むな、姦淫するな、偶像を忌み嫌いながら神殿を汚すのか。いくら律法を熟知していてもそれを守らずしたり顔をするだけの歩みではまさに神を侮っていることだ。「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている。」のだ。アブラハム以来の伝統として守られてきた割礼も律法の意味が正しく生かされてこそ意味あるものとなるのです。そうであるなら割礼のあるなしは救いの絶対条件ではないのです。もはやユダヤ人異邦人の区別はない。外見ではなく心の内を見る方を正しく拝するのです。主の前では皆罪人であり、我らは主の十字架で贖われ生かされているのです。感謝。
(2019年7月7日礼拝説教より)