「福音を恥としない」
更新日:2019.6.10
ローマの信徒への手紙1章16-17節 (新約273頁)
米倉 美佐男牧師
「わたしは福音を恥としない。」(16節)。福音を恥としない、ということは福音を恥とすることがあったのでしょう。であるなら福音を恥とするとはどのようなことでしょうか。そもそも福音とは何かが問われます。ここの中心テーマは福音です。福音は良き知らせ、グッドニュースです。パウロがこの言葉を使う時、特別の意味があります。それはイエス・キリストを指しています。イエス・キリストの救い、主イエスの十字架、復活を表しています。イエスを贖い主と信じる私たちにとって主イエスご自身が良い知らせです。
パウロが福音を恥としないと言う時、文字通り恥と感じることがあったのだと思います。キリストを信じることは好ましくないという風潮はユダヤ人にもギリシア人にもありました。別な手紙で十字架の言葉は、滅んで行く者にとっては愚かなものだと彼は言っています。ユダヤ人はイエスをメシアと認めないし、ギリシア人はキリスト教を馬鹿げた信仰とみなしていました。さすがのパウロも体調が優れない時はすごく不安でありました。
そのような中でパウロは自らの信ずるところを少しも恥とせずと言いました。あらゆるこの世の誘惑から守られ、キリストに捕らえられ、キリストを信じる者とされたという告白です。パウロにとって福音は神の力です。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(16節)。福音は人間の力でなく神の力です。神の力が彼を生かし、支え導きます。福音は信ずる者すべてに、ユダヤ人もギリシア人も隔たりなく、信じる者に救いを与えてくれる神の御業です。「福音には、神の義が啓示されていますが、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」(17節)。神の義は神との正しい関係です。福音が神の力であると語った内容は信仰による義、神の義によって啓示されているのです。
(2019年6月2日礼拝説教より)