「キリストを得る」
更新日:2019.3.4
フィリピの信徒への手紙3章7-11節 (新約364頁)
米倉 美佐男牧師
「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」(8節)
パウロは彼自身が披歴しているようにこの世的には超一流の肩書を持った人物です。ユダヤ人同胞の間ではスーパーエリートでした。けれども彼の経歴披露の目的は別な意図がありました。この世的にはプラス材料であったそれらをキリストのゆえに損失と見なすようになったと言います。無価値宣言です。それらを主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、一切を無価値だったと言い切るのです。冒頭でお読みしたように、キリストのゆえにすべてを失いましたが、それらを塵あくただと思ったと。
理由は極めて明白です。キリストを得るため、キリストの内にいる者と認められるためです。せっかく苦労して時間も富もかけて、努力して勝ち取ってきたことを復活の主との出会いで、すべてを価値無きものと見なすに至ったと。それは何故でしょう。おそらく、彼は真剣に救いを求めていました。でも得られなかった。得た実感がなかった。今までそこに救いがあると思い求めたものからは救いが得られず悩んでいた。その時にキリストとの出会いがあったのです。そこに本当の救いがあることを見出したのです。
キリストを得る、それが今朝のキーワードです。わたしたちもキリストを本当に知ったならパウロのように、本物に出会えた喜びを持てるのです。私たちはキリストを見たことはないがキリストを愛し、見てはいなくても信じているのです。それはキリストを得る、あるいはキリストの内に自分を見出すことです。キリストの中に自分の居場所があるのです。私たちは神に知られている、キリストに知られている。あるがままで、そのままでキリストに飛び込めばいいのです。キリストにのみ救いがあるのです。
(2019年2月24日主日礼拝説教より)