「イエス・キリストは主である」
更新日:2019.1.16
イザヤ書61章1節(旧1162頁)
フィリピの信徒への手紙2章6-11節(新363頁)
米倉 美佐男牧師
「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(8節)。
クリスマスシーズンに入る前に読み始めたフィリピ書を一時中断していましたが、今朝から再びフィリピ書に戻り説教します。順番を前後して今朝は2章の6節から11節を先に取り上げ、次週は1節に戻ります。6節から11節は昔の讃美歌です。新約聖書はない時代です。どんなメロディーで歌われていたのでしょう。
「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、
僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(6-7節)。
神が人となられたこと。誕生(クリスマス)、死(十字架)、高挙(復活)、そして天上、地上、地下のものすべてがその栄光をたたえる讃美です。そしてイエス・キリストは主であるとの告白がなされます。それは信仰告白です。聖霊によって導かれた教会の告白です。
新年の最初の主の日に私たちの信仰を高く掲げましょう。クリスマスで得た喜び、感謝を主に献げましょう。私たちの求める一致はそれしかありません。共に礼拝に与り、共に頭を垂れない限り主にある一致は生まれません。教会を拒否してはなりません。教会においてこそイエス・キリストは主であるとの、告白が維持されるのです。絶えず教会とは何かということを鮮明にしておくことが大事です。もう一つ覚えるべきことは教会は間違いを犯しません。間違いを犯すのはそこに集う人間です。安易に教会が間違ったと言うことはキリストを汚すことです。すべての舌が「イエス・キリストは主である」と告白して、父である神をたたえ、栄光を神に帰すのです。すべての舌がキリストを正しく告白をすることを主は忍耐強く待っておられるのです。
(2019年1月6日礼拝説教より)