「すぐ鶏が鳴いた」
更新日:2018.8.9
マタイによる福音書26章69-75節(新約P55)
牧師 米倉 美佐男
ペトロは外にいて中庭に座っていました。ゲッセマネの園でイエスを見捨てて逃げたものの、心配と後ろめたさで一人、大祭司カイアファの庭に忍び込み師の様子をうかがっていました。その時「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と女中に言われます。即座に「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と否定しました。その後も二度イエスの仲間だと指摘され、二度とも強く否定します。三度目などうそだったら呪われても良いとまで言っています。
するとすぐ鶏が鳴いた。その時「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、ペトロは外に出て激しく泣きました。けれどもいくら悔やんだからと言っても、取り返しがつきません。必要以上に慌てて、取り乱し、三度も知らないと主イエスとの関係を否定してしまったのですから。
鶏の鳴き声はペトロを覚醒させました。鶏の声でペトロは主イエスのみ言葉を思い出したのです。「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい」(コロサイ3・16)。彼が激しく泣いたからそれですぐ悔い改めたとは言えません。後悔はしたでしょうが本当の悔い改めがなされたとは言えません。本当の悔い改めがあれば、その場で私はイエスの仲間だったと言えたかもしれません。でも言わなかった、言えなかった。主の十字架と復活イエスの出来事に出会う時にわたしたちは本当の意味で変えられるのです。人間の裏切り行為、どうしようもない愚かさ、それに対して主は捕らわれの身でも、十字架の上においてもなお憐みの眼差しでペトロを見、また自らをあざ笑う者をさえとりなしの祈りをし、罪を贖ってくださいます。罪とは何かを問うなら神を知らず、主を受け入れようとしない人間の驕り愚かさです。私たちが自分自身のこともよく分かっていないことに気づく時、主イエスがこのような者をさえ救ってくださることに気づくのです。
(2018年7月29日主日礼拝説教より)