「ユダの接吻」
更新日:2018.7.23
マタイによる福音書26章47-56節(新約P54)
牧師 米倉 美佐男
「わたしが接吻するのがその人だ。それを捕まえろ」(48節)。
ゲッセマネの園での祈りを終え、イエスがまだ話しておられた時、そこにユダがやって来ます。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も剣や棒を持って一緒に来ました。前もって決めていた通りにユダはイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って主に接吻します。主は「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われます。
イエスの声をきっかけに、人々はイエスを捕えたのです。小競り合いがあり、弟子の一人が剣を抜き、大祭司の手下に切りかかり、片耳を切り落としました。イエスは「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。・・・わたしが父にお願いできないとでも思うのか。・・・しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」(52-54節)。また群衆に向けても「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕えに来たのか。・・・このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」(55-56節)。
ここでどうしても見ておかなくてはならないことがあります。それはイエスが捕えられた時、そこに弟子たちはいなかったのです。彼らは皆、イエスを見捨てて逃げてしまったのです。それが現実です。あれだけ他の者がイエスを見捨てても私だけは大丈夫と豪語していたペトロも。もしかすると彼は真っ先に、身の安全を求めて、逃げ出したのでしょう。この事を考えると、弟子たちもユダとあまり変わりない現実であるのです。大きな違いはただ一点だけ。自分たちの犯した過ちを認め、悔い改められるか否かです。罪を認められずにただ後悔しただけでは自分自身を滅ぼすしかありません。弟子たちが変えられたのは、主の十字架の生き様と、復活の幸いの恩恵に与ることができ、真の悔い改めへと導かれたからです。
(2018年7月15日主日礼拝説教より)