札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「最後の晩餐」

更新日:2018.7.9

マタイによる福音書26章26-30節(新約P53)

牧師 米倉 美佐男

除酵祭の第一日目の食事の続きです。一方にはユダの裏切りの記事を思い起こさせながら、この食事の席は、最後の晩餐の時であり、同時に新しい主の食卓の始まりとなりました。一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われます、「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して、「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(26‐28節)。

主が弟子たちに伝えたかったことは、ユダの裏切りの事実ではなく、最後の晩餐の重要な意味です。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」(26節)。パン(マッツォート)を手に取りこれはわたしの体である、と言われたのは象徴として言われたことです。杯も同じです。命のパンであると言われた十字架の上でのキリストの体、流された血、それは明らかに過越の犠牲そのものです。

最後の晩餐の食事が意味するのはこれから迎える十字架は過越の小羊の犠牲だということを覚え続けることです。そこに唯一の救いがあるからです。主は弟子たちに遺言を与え、これから起こることについての証しをし、新しい契約としての十字架を示しました。最後の晩餐をもって過越の祭りは完成したのです。最後の過ぎ越し祭を経て、新しい過越の象徴としてキリスト教会の聖餐式があるのです。私たちはキリストというパンをいただき、この杯を飲むごとに、それによって主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのです。「きよき者あらば来たらしめ、きよからぬ者あらば悔い改めさせよ。マラナタ、アーメン」(ディダケー10章)。日々悔い改めの心をもって、主の十字架と復活を仰ぎ見るのです。唯一の救いがあることを信じて。

(2018年7月1日主日礼拝説教より)

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