「信じるなら、栄光が見られる」
更新日:2018.2.26
ヨハネによる福音書11章38-44節(新約P190)
牧師 菊地 啓示
主イエスは兄弟の死を悲しむマルタに向かい、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言われました。主イエスがそこにおられるなら、どんなに命の無い場所であってもそこには死の力ではなく復活の力が満ちるのです。主はわたしたちに、その場所に主がおられること、信頼して主の御言葉を聞き、従うことを求めておられます。
主イエスは愛しておられたラザロを復活させる力ある御言葉を語られるに先立って、墓穴をふさいでいる重たい石を取りのけるようにと仰いました。墓を封印する石を取りのけるなど、常識的には考えられないことですが、主イエスは人々にそうさせることで、神の栄光の御業を見る準備をさせられたのです。
「もし信じるなら、神の栄光が見られる」と言われますが、主イエスはわたしたちが、心で信頼しつつ服すること、すなわちその御言葉に従うことを求めておられます。「石を取りのけなさい」と仰る主イエスに従うことは、わたしたちが「重たい石」であるかのように動かし難く思うこの世の常識や、それぞれがこれまで固く守ってきた考え方ややり方を取りのけることでもあるでしょう。
かつて漁師だった頃のペトロも、一晩中苦労したのに何も獲れなかった朝、その同じ湖で「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と主イエスから言われました。彼は始め主に言い逆らったけれども、後に「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えて主の言われた通りにすると、おびただしい魚がかかって網が破れそうになり、神の栄光の御前にひれ伏したのでした。夜通し漁をしても小魚一匹とれなかった同じ湖が、主イエスの言葉に従った時、偉大な御業の舞台となりました。
神の栄光、主イエスの生きて働かれる御姿は、わたしたちの日常の中に見ることができるはずです。わたしたちが自分自身で握り締めてきた常識を捨てて信頼し、その御力に期待することを主イエスは待っておられるのです。
(2018年2月18日主日礼拝説教より)