「獣の心に着る衣」
更新日:2018.1.22
ヨハネの黙示録16章1-21節(新約P470)
牧師 久保 哲哉
「見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。(黙16:15)」
是非、創世記3章のアダムとエバの出来事と、ルカ福音書15章にある放蕩息子のたとえをご覧ください。神の言いつけを破ったアダムとエバは自分たちが裸であることに気づき神の御前から「逃げ去り(黙16:20)」ました。神との約束を破ったのは自分であったにも係わらず、彼らは悔い改めることをしませんでした。それで彼らは神より厳しく罰せられ、エデンの園を追放されます。逆に「何もかも使い果たし(ルカ15:14)」、裸一貫となった放蕩息子は「我に返って(ルカ15:17)」悔い改め、父のもとへと帰ります。決定的に重要なのは「恐ろしくなり隠れて(創3:10)」しまうことではなく「父親のもとに行った(ルカ15:20)」ことです。わたしたちは放蕩息子のように生きるか。アダムとエバのように生きるか。問われているのだろうと思います。すると父は「急いで一番良い服をもってきて、この子に着せ(ルカ15:22)」、そこから祝宴が始まっていくのです。
「主イエス・キリストを身にまといなさい(ロマ13:14)」と命じられているわたしたちは洗礼を受けることで主イエスの衣を「身に着けている(黙16:15)」のです。ときに、神に逆らう「獣の心」が顔を出す私たちです。その罪を赦す主キリストの愛が、十字架の福音が私たちを満たしてくださる「幸い」を味わいましょう。人生の歩みも教会の歩みも苦難が多い旅路ですが、聖霊により主キリストの衣を身に着けさせていただきましょう。十字架によって罪赦され、死をも打ち破る主の復活に示された神の愛に信頼していけば大丈夫です。わたしたちは一人ではありません。インマヌエルの主が共におられるから安心して神の国への道を進むことができます。その日一日の苦労はしっかりと担いつつ、神の助けによって信仰の戦いを戦い抜いて、主の栄光を現すために進みゆきたいと願います。
(2018年1月14日主日礼拝説教より)