札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「何をして欲しいのか」

更新日:2018.1.9

マタイによる福音書20章29-34節(新約P39)

牧師 米倉 美佐男

「何をしてほしいのか。」(32節)

主イエスの遺言のような言葉を聞いた時、弟子たちやその親が何を望んだかを思い出してください。今日の箇所は別なエピソードが記されます。「一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。そのとき、二人の盲人
が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください。」と叫んだ。」(29―30節)

今までの癒しの記事の中にも同じような出来事がありました。ただこの記事がここにあるのは一連の流れの中で見る必要があります。「憐れんでください」とは切実な心からの求めです。目の不自由な人は、生活のために一日中道端に座り物乞いするしか生きる術がありません。人の情けにすがるしかなかったのです。ところが彼らの求めは、イエスから「何をしてほしいのか」と問われた時、二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」(33節)と言ったのです。金品、食物より切実であったのは見えることだったのです。

「主よ、目を開けていただきたい」、見えるようになりたいは彼らの切実な願いです。この求めに主は応えられます。彼らを深く憐れんで、その目に触れられます。すると盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。主イエスは必要とあれば切実な求めには憐れみをもって応えてくださるお方です。求めが聞かれることもあれば聞かれないこともある。けれども主イエスは必ずその人その人に必要なことをお与え下さるのです。そのことが分かった者、受
け入れることができた者は必ずイエスに従う者とされるのです。私たちも伝え、勧めるのです主の救いの確かさを。ここに求めれば必要なものを必ず満たしてくださるお方がおおられることを。

(2017年12月31日主日礼拝説教より)

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