札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「教会の土台」

更新日:2017.7.20

エフェソの信徒への手紙2章19‐22節(新約聖書P354)

具志堅 篤 牧師

パウロは教会を建物に喩えた。列王記(上)6章には神殿建築の様子が記されている。「…建築中の神殿は、槌、つるはし、その他、鉄の道具の音は全く聞こえなかった。」(列王(上)6:7)神殿建築の音(騒音)はなかった。なぜ音は出なかったのだろうか。「・・・石切り場でよく準備された石を用いて行われたので、・・・」とある。予め石切り場でよく準備された石を用いたために音は出なかった。音(騒音)は、信仰の不一致の象徴だ。聖書の教え、福音理解に一致のない教会は騒々しい。パウロは何故、教会を「神殿」に喩えたのか。エフェソの町にはアルテミス神殿や他にも異教の神々を祀るための神殿があった。そこは、きっと貪欲で自己中心的な祈りで騒々しかったに違いない。

建物は様々なパーツで組み合わされて成り立つ。主イエス・キリストの功によって救われた一人ひとりが召されてキリストの体なる神殿(教会)のパーツとなる。お互いが必要欠くべからずとの認識はとても大切なことだ。教会は、主ご自身によって建て上げられていく。「使徒と預言者たち」は教会の土台として主イエス・キリスト証言を表す。ところが、主に召し集められたお互いであるはずなのに中々ひとつになれない。そこに教会の悩みがある。

しかし、主イエスが「かなめ石」(楔石)となられたゆえに「神の宮」としての「教会」は堅固に建つことが可能となる。すべてはキリストにおいて成されていく。「この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがたも生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。」(Ⅰペトロ2:4〜8)。「神の住まい」である教会は未だ完成への途上にある。しかし、そこに響きわたる調和のとれた神賛美を奏でながら教会は成長し続ける。「キリストを土台」とし、「キリストをかなめ石」とする教会の姿がそこにある。

(2017年7月9日特別伝道礼拝説教より)

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