「異邦人は主の名に望みをおく」
更新日:2017.3.27
マタイによる福音書12章9-21節(新P21)
牧師 米倉 美佐男
「見よ、わたしの選んだ僕。」(18節)
レントの第3主日です。冒頭の言葉は旧約聖書イザヤ書42章1節です。先週に続き安息日の出来事です。主イエスは会堂にお入りになられました。もちろん礼拝するためです。そこに片手の萎えた人がおりました。人々はイエスを訴えようと思って「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」(10節)と尋ねます。
前回のファリサイと同じように、あるいは同じ人たちかイエスを厄介者と思っている人たちです。悪意に満ちた問いです。自分の意にそわないものは理由をあれこれつけて、言い方は丁寧でも相手をひきずりおろしてやるという魂胆がみえみえです。けれども当時の律法理解、解釈、見解でも安息日に病気を癒すことは違反だと言う明確な判断基準は認めがたいものでした。ただ、単純に彼らはイエスの存在が気に食わなかった、イエスが嫌いだったのです。
イエスは言います、「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」(11-12節)。見事な切り返しです。イエスは言われます。病をいやすのは正しいと。良いことをするのに何の問題があるのかと。「安息日に善を行うのと、悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」(マルコ3・4、ルカ6・9)。救えるのに救わないのは悪です。見殺しは善ではありません。善ができるのに安息日だといってできる善をしないのは悪です。主イエスは、片手の悪い人に言われます。「手を伸ばしなさい」と。伸ばすと手は良くなりました。主の言葉に望みを持つ者に恵みが届くのです。
「疲れた者、重荷を負う者」はユダヤ人異邦人もないのです。主イエスは「わたしのもとに来なさい」とすべての者を召してくださるのです。
(2017年3月19日主日礼拝説教より)