「安息日の主」
更新日:2017.3.21
マタイによる福音書12章1-8節(新P21)
牧師 米倉 美佐男
「人の子は安息日の主なのである。」(8節)
ある安息日のこと、イエスと弟子たちが麦畑を通られた時のこと、弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。空腹だったのです。弟子たちの行為を見たファリサイ派の人々は、イエスの弟子たちが安息日の決まりを破っているとクレームをつけたのです。ファリサイは他人の所有物を無断で取ったことがいけないという訴えではありません、穂を摘むという行為が安息日の労働禁止規定に違反することを問題にしたのです。
正確にいうなら、3節以下で主イエスが語られているように弟子の行為は必ずしも律法違反とは言えません。「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」(申命記23・26)とあり律法規定に照らしても違反とは言えません。律法を熟知しているファリサイが律法規定を盾にクレームをつけるのは別目的があるからです。何をしてもイエスおよび弟子たちが目障りだから、難くせをつけているのです。
安息日はモーセの十戒の第四戒(出エジプト20章)に記されています。週の終わりの日、土曜日、神がすべての創造の業を終え、休息された日です。創造された我らが主を礼拝する聖なる日です。ファリサイのクレームは律法違反ではなく、当時のユダヤ教戒律に違反しただけです。弟子たちも完璧ではなく、安息日に飢えるような不用意な生活をした点は不用意でした。ただファリサイは根本的に間違っています。律法は人を殺すためでなく生かすための戒めです。イエスはご自分を神殿よりも偉大で、人の子は安息日の主だと言われました。それがここの問題の核心です。イエスとは誰なのかが問題なのです。「わたしが求めるのは憐れみであっていけにえではない。」(ホセア6・6)この意味を正しく知らないから目の前にいるお方が誰であるのかを見ることができず、受け入れることができないのです。
(2017年3月12日主日礼拝説教より)