「断食するとき」
更新日:2016.6.20
マタイによる福音書6章16-18節(新P10)
牧師:米倉 美佐男
「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(18節)
今朝の礼拝は、子どもの日(花の日)礼拝です。毎年六月の第2週をその日として覚えています。今日の聖書は、「断食するときには」と語り出されます。「断食」は当時行われていた宗教的意味におけるものです。聖書は他にも禁欲的目的をもった「断食」についても語っています。(コロサイ2・16-23、一テモテ4・13)。
「断食」は何のために行うのでしょう。詩編35・13「彼らが病にかかっていたとき わたしは粗布をまとって断食し、魂を苦しめ 胸の内に祈りを繰り返し」とあります。「断食」は祈りに心を向ける当然の結果です。当時のユダヤ人の生活で、年に少なくても1回、「贖罪の日」に行うものでした。大祭司が代表して人々の罪を贖うために定められた断食もあります。(レビ23・26-32)。そこから派生していかにも断食をしているという素振りがこれ見よがしにあったのです。
要は何のために「断食」をするのかということです。イエスとその弟子たちは当時の生活ではどうも定められた断食をしていないでとがめられていたようです。それに対する律法学者やファリサイへの批判であったようです。
断食は本来キリストを身近に感ずるための自己訓練であります。主イエスの弟子となるための訓練となる時に意味あるものとなるのであって、自己アピールやパフォーマンスではないのです。人任せでなく自分自身の身を打ちたたいて自己訓練するのです。その訓練は正しく行われる時は隠れているのです。顔を見苦しくしたり、沈んだ顔つきをしてはならないのです。大切なことは「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(18節)ことを知ることです。自らに問うのです。キリストに従っているかと。
(2016年6月12日子どもの日統合礼拝説教より)