札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「十字架の言葉」

更新日:2015.9.28

コリントの信徒への手紙一 1章18-31節(新P300)

牧師:米倉 美佐男

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(1節)

今朝は逝去された先達のことを偲んで主に礼拝を献げます。敗戦後70年の時を覚えています。この国も大きく変わろうとしています。この礼拝は無くなることはありません。礼拝堂に写真を飾ってきた今のスタイルは今年で終わる予定です。やがて私たちも主の御許に帰ります。主が約束されたように、私たちも彼らと共に復活する信仰を受け継いで行くのです。聖書の信仰では永遠に眠り続けるのではなく甦りの信仰があるのです。

十字架の言葉とは主イエスの十字架の出来事です。私たちの罪を赦すために主イエスは十字架にかかって下さいました。その事実を受け入れ信じた者は救われ、拒む者は救われない、滅びるのです。著者パウロは復活の生ける主イエスに出会ってすくわれました。キリストのへりくだりの姿、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しないで自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた。主は十字架の死に至るまで従順であられた。そのへりくだりのお姿が彼を変えました。

パウロは尊いそのお姿に触れて、すべてを委ねて歩む決心が与えられ生涯をキリストに献げたのです。彼はユダヤ人の中では地位も名声も富もあるエリートでした。けれどもキリストに出会い信じた時から生活は一変しました。迫害する者が伝道する者と生まれ変わったのです。またそれまでに得たこの世的価値をちり芥だとさえ言うのです。彼はすべてを託せる方と出会ったのです。福音のため、主のためならどのようなことでもすると言うのです。私たちも今、時がどのように変わろうとも、足元をしっかりと固めて十字架の言葉にしっかりと立って歩みましょう。十字架の言葉を信じて、主に従う者として、生かされましょう。

(2015年9月20日礼拝説教より)

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