「洗礼の喜び」
更新日:2015.6.29
使徒言行録8章26-38節(新P228)
桑 渚牧師
エルサレム神殿に礼拝を捧げにやってきたエチオピアの女王カンダケの高官が、馬車に乗って長い旅路を帰る途中でした。エルサレムからの帰り道は寂しい道でした。
「寂しい道」というのは、エチオピアの高官の心の状態を現すものだったのかもしれません。エルサレムで神様を礼拝しながらも心が満たされない。馬車に乗って帰る途中、高官は聖書を声に出しながら読んでいたのです。
「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザに下る道に行け。」そう主の天使に命じられたフィリポは聖霊におしだされて走り出します。聖書の声が聞こえるエチオピアの高官が乗った馬車を追いかけ、高官に語りかけるのです。「読んでいることがお分かりになりますか?」高官は答えます。「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう。」フィリポはエチオピアの高官に招かれ馬車の隣に座り、馬車に揺られながら、聖書の説き証しをしたのです。高官が読んでいた聖書はイザヤ書53章でした。ここに書かれていることはイエス・キリストを証していると。
エチオピアの高官が願います。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」初代教会の洗礼の問答がここに記されています。
エチオピアの高官は最初の異邦人洗礼者となりました。フィリポと高官が水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去りフィリポの姿が見えなくなりました。しかし、エチオピアに帰る寂しい道は、高官にとって喜びに溢れた旅となりました。フィリポが去って高官一人になっても「喜びにあふれて旅を続けた」のです。導いてくれた人が見えなくなっても、その喜びは旅路の中で続くのです。これからはイエス・キリストが共におられる人生の旅路となったからです。洗礼の喜びは一人だけのものではなく教会全体の喜びです。
皆さんもまた、誰かに聖書の説き証しをしてもらい、聖書の御言葉に触れ、イエス・キリストと出会い、洗礼へと導かれたのではないでしょうか。高官にとってのフィリピがそうであったように今度は私たちがイエス・キリストの福音を伝えるものとされます。
(2015年6月21日礼拝説教より)