「目に見えるしるし」
更新日:2015.3.9
コリントの信徒への手紙一 10章16節(新P312)
牧師:米倉 美佐男
「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。」(16節)
ハイデルベルク信仰問答 第二九日 問七八〜問七九
問七八 それならば、パンとブドウ酒から、キリストのからだと血そのものが、できるのですか。
問七九 それならば、何故、キリストは、パンをみからだ、杯を御血潮、あるいは、その血による新しい契約、とおよびになり、パウロは、イエス・キリストのからだと血にあずかると、いったのですか。
問七八の答はそうではないと言います。それは神によるしるし、保証であってキリストのからだそのものになるわけではないのです。問七九の答はそれによって、パンとぶどう酒が、主の十字架につけられたみからだと流された御血潮とが、永遠の生命にいたる、われわれの魂のまことの、食物また飲物である、ということを教え、目に見えるしるしと保証とをもって主の記念として、肉体の口をもって受ける時に、聖霊の働きによって、主のみからだと御血潮にあずかるのだと言います。
これらの問は明らかにカトリック教会の聖餐理解(聖変化、化体説)に対する批判として、語られています。それは今でも大きな違いはありません。私たちの理解は聖餐は聖霊の働きによるのです。イエス・キリストはパンとぶどう酒という目に見えるしるしが指し示している十字架を表わしたのです。十字架の御身体と御血潮が私たちの信仰を養い育てるのです。私たちにとって聖餐に与ることは救いのためにキリストがすべてであることと、キリストの前に私たちは無きに等しい者であることを示しています。キリストが与えて下さり保証して下さる恵みを賜るのです。聖霊の導きによって主の食卓に集う時、恵みの真実と豊かさを味わうことができるのです。
(2015年3月1日礼拝説教より)