札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「向こう側を目指して」

更新日:2014.7.7

マルコによる福音書16章1-8節(新P97)

牧師:洛 雲海(ナグネ)
(長老会神学大学校助教授・
セムナン教会協力牧師・
聖学院大学客員教授) 

私たちの人生はなかなか想い描いたようにはいかないものである。願い通りにいかないことが多い。しかし、困難という壁が目前に立ち現れたとき、私たちキリスト者はその背後にあるものに心を向ける必要がある。神は生きておられる。この点で今日の御言葉は決定的である。それは聖書が最も大切にする言葉の一つで、聖書を理解することもそこからしか始まらないような言葉である。「あの方は復活なさって、ここにはおられない」!この言葉が墓の中に響き渡った。福音の告知である。全てはここから始まり、ここに収束してくる。私たちの希望の根拠がここにある。

しかし、いったいこの世の誰がこんな言葉を真顔で語ることができるだろうか。ところが、この言葉は世界を根底からひっくり返してしまった。この言葉が語られる所では普通が普通でなくなる。死が墓にないというのだ。この出来事には天がかかわっている。キリスト者にとって墓とは何か。墓は復活の場である。天に通じた場である。本当に幸いな場である。墓に急ぐ女性たちがいた。彼女たちはこう話した。「だれが、墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」。彼女たちは気付いていた。自分たちの前途には大きな妨げの石があるということを。それが取り除かれなければ、墓の内側、墓石の向こう側に入ることさえかなわないことを。私たちの人生にも妨げの石がある。時にそれは非常に大きい。しかし、その向こう側にあるものがあまりにも重大なとき、愛の対象でさえあるようなとき、私たちはそこに向かって進まないではいられなくなる。彼女たちがそうだった。

私たちはこう信じる。主は復活なさって、墓の中にはおられない。空の墓は復活の希望だ。墓の中で語られた復活宣言に希望の根拠がある。新しい世界はここから始まった。私たちの歩みも墓へと進むように見えるが、墓で終わるのではない。墓はキリストの復活によってすでに生が支配している場なのだ。私たちと共におられるお方は、復活されたキリストである。だから、私たちの歩みを拒む大きな石があることが予想されても、向こう側を目指して歩み行こうではないか。その歩みが主を目指すものであるなら、その石は神が取り除いてくださるにちがいない。

(2014年6月29日礼拝説教より)

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