「生ける神を礼拝する」
更新日:2013.11.11
ヘブライ人への手紙9章1-14節(新P410)
牧師:米倉 美佐男
「永遠の霊によって、御自身をきずのない」ものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」(9章14節)
今朝もヘブライ人への手紙からメッセージを聞きます。1節「最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。」と書き始められています。礼拝の場所としての聖所、礼拝を司る、指導者である祭司が取り上げられます。
聖所である幕屋については旧約の出エジプト25章に出てきます。第一の幕屋、第二の幕屋とありますが、第二の幕屋は至聖所のことです。そこには大祭司だけが年に一度入ることができます。9節には「この幕屋とは今という時の比喩」だと書かれています。つまり地上の幕屋でなされる犠牲、礼拝では、真の救いに至らないと言い、せっかくキリストが示されながら何故脱落する者が出てくるのか。そのような信仰者の姿もまた真の救いに至らない地上の幕屋、古い時代の不信仰な姿そのものだと言うのです。
10節には、食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するものは、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎないと言われています。そこに救いはありません。キリストは大祭司として来られました。キリストは動物の犠牲の血ではなく、自らの肉と血を以て私たちの罪を贖って下さいました。即ち、十字架こそが真の救いなのです。生ける神を礼拝することが今求められているのです。毎週主の日毎に献げている礼拝が生ける神を礼拝するものであるように。幕屋の大きさとか建物の立派さではなく、主の与えて下さる救いの確かさを感謝して歩むのです。御子の御血潮によって永遠の贖いを私たちは得たのです。礼拝によって、み言葉によって、聖餐によって主の救いの確かさを味わえるのです。わたしは彼らの神となり、彼らは私の民となる。神を知ることが許された幸いを感謝します。
(2013年11月3日礼拝説教より)