「確信と希望に満ちた誇り」
更新日:2013.8.19
ヘブライ人への手紙3章1-6節(新P403)
牧師:米倉 美佐男
「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。」(3章6節)
6節の御言葉は私たちにとって大きな慰めと励ましを与えてくれます。教会が教会として正しくある時は、そこには主にある希望と喜びがあります。もし、確信と誇りに満ちた希望がないなら、神の家としてのふさわしさはありません。教会の中心にはいつも御子、イエス・キリストがおられます。そこに希望があるのです。
信仰者は「天の召しにあずかる、聖なる兄弟」と呼ばれます。イエスのことを思い見ることによって、主のためにこの地上から聖別されたからです。主イエスは私たちの大祭司です。父なる神は私たちの罪を赦し、執り成しをお与えくださいます。それがこの書の中心的なテーマです。次にモーセが登場します。彼はイスラエルにとって重要な人物です。しかし、著者は言います。主イエスはモーセ以上のお方であると。モーセがどんなに偉大であったとしても、主イエスはそれ以上のお方なのです。
御子イエスは神の家族の創始者であり相続人です。キリストは父なる神の御子として神の権威、権能をお持ちになってこの世に降られました。そうであるからキリストに捉えられた者は神の家、神の家族です。それなのに信仰の確信を失い、希望と誇りを見失ってしまったら教会は教会でなくなってしまいます。信仰者として神の家に招かれている者は、信仰を確信し、主の十字架と復活の信仰の希望と誇りを見失わないようにしっかりしなければなりません。初めの熱狂が衰え、今か今かと待っていたキリストの再臨もなかなか来ず、さらに弾圧、迫害によって信仰が風前の灯のように、弱ってしまった者たちに、今一度キリストのみを見上げて信仰の土台の上に固く立って歩みなさいと勧告するのです。主のみを誇りとして歩みましょう。
(2013年8月11日礼拝説教より)