「民の罪を償うために」
更新日:2013.8.12
ヘブライ人への手紙2章10-18節(新P402)
牧師:米倉 美佐男
「イエスは、神のみ前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」(2章17節)
私たちはキリストに、より強くより深く結ばれていることをもっともっと実感いたしましょう。この書は最初「御子」という言葉が多く使われていました。ここでは「イエス」という言葉が3度でてきます。3章からはキリストもでてきます。さらにイエスは大祭司とも言われます。
11節では、聖なる者となさる方(イエス)と聖なる者とされる人たち(私たち)は一つの源(神)に属していると言います。さらに、イエスは信じる者たちを兄弟と呼ぶことを恥としないと言います。その意味は、イエスが私たちと同じ人間となられたと言う宣言です。イエスが兄弟となってくださったから私たちは神のものとされたのです。神は私たちのために独り子イエスを救いの創始者、パイオニアとしてお与えくださったのです。12節は詩編22編23節、13節はイザヤ書8章1節からの引用です。神を信頼しその愛を忘れないようにと言うのです。
主イエスが血と肉とを備えられたことは、主は人となり、死ぬ存在となられたのです。死は生の終わりであるがゆえに、肉体の衰えや、病によって人は不安や恐れを持つのです。それを悪魔の仕業と言っています。それからの解放が御子イエスの働きです。死の恐怖のために生涯奴隷の状態、悪魔の支配下にある者を解放し、ご自分の支配の内に招き出してくださいました。アブラハムの子孫である神の民を助け、大祭司として民の罪を償うために人間となられました。それがこの書の一番伝えたいメッセージです。主イエスは数々の試練を受けて苦しまれたので苦しみを抱えている者たちの苦しみを担うことができるのです。私たちの信じるイエス様はそのようなお方です。主イエスを忘れず、主から離れず、共に主に従う者であり続けましょう。
(2013年8月4日礼拝説教より)