「信じる者になれ」
更新日:2013.6.24
ヨハネによる福音書20章24-31節(新P210)
牧師:米倉 美佐男
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(29節)
信じるということはどのようなことでしょうか。みなさんは本当に信じていますか。私に、お前は信じてているのかと聞かれたら、もちろん信じていますと答えます。でも、言ったそばから、本当か?という内側からの声を聴くのです。今朝の記事はそのことと深く関係しています。
前に復活の主イエス・キリストが弟子たちに現れたことが報告されていました。今朝は12弟子の一人、ディディモ(双子)と呼ばれるトマスにも復活の主が現れてくださったことが記されています。最初弟子たちに主が現れた時、トマスはそこにいませんでした。「主を見た」と弟子たちが報告しても、トマスは信じませんでした。ところが8日後、主が再び弟子たちに現れてくださいました。今度はトマスもいました。主は言われます。手に指を当て、手を伸ばしてわき腹に入れてみなさいと。そして「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われます。
この時トマスは気づきます。そして「わたしの主、わたしの神よ。」と言います。彼の性格がよく出ています。イエスが再来訪してくださり、トマスがこだわっていたことを見事に解決してくれたので、彼は納得できたのです。だから迷うことなく、わが主、わが神、と言えたのです。しかし、主のお言葉は示します。「見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」。主はトマスの信仰を咎めたのではありません。主イエスと同時代に生きていなくても、復活の主を信じることができることを示されたのです。見なくても信じることのできる幸いが語られています。信仰とは見ずして信ずることのできる幸いです。この福音書の書かれた目的はみんながイエスをキリストと信じて、命を受けるためでありました。信じない者ではなく、信じる者になりましょう。
(2013年6月16日礼拝説教より)